SEAFOODBOWL vol.1 お試し読み案内

2020年1月19日開催の第4回文学フリマ京都において発行の『SEA FOOD BOWL vol.1 海のどんぶり』収録作品の試し読みページです。
「海」をテーマにした短編小説を4作品収録しています。

 『おめかけさん』/作・赤身(ホラーミステリー) 

 目的地への到着を告げる船内アナウンスを聞いて、織川侑希おりかわゆうきは座席から立ち上がった。数日分の着替えなどが入ったボストンバッグを右肩に下げ、出口を目指す。船の中に、他の乗客の姿は見えない。降りるのはもしかしたら自分だけなのかもしれない、と織川は思った。
 驚くほどに交通の便が悪く、一日に一回のフェリーしか、本土との行き来の手段がない島。その島の名を、矢倉島といった。道中の船の中で調べたところによると、島自体はそれほど大きくなく、島全体でひとつの町、矢倉町を形成している。島の外周を山に囲まれ、真ん中が平坦な盆地のようになっている地形、とのことだった。目立った観光地などは、特にない。もう少ししっかり調べることができたならば、何か興味深い歴史なども見つかったかもしれない。しかし、本土から離れるごとに弱くなる電波で、スマートフォンが吐き出す情報としては、この程度が限界だった。
「(……?)」
 タラップに繋がる扉が見えてくると、織川は、そこに一つの人影があることに気付いた。外からの逆光で、顔は見えない。ただ、姿かたちや、ゆったりとした動きからして、年老いた女性であるように思えた。
 少し大きめの荷を両手で持っているらしく、ふらふらと足元が頼りない。荷物と一緒に杖も持っているところからして、もしかしたら普段はそれを突いているのかも、と想像した。
「大丈夫ですか? お手伝いしましょうか」
「?」
 後ろから、人影に声をかける。近くまで来て分かったが、想像したことに誤りはなかった。老女は、話しかける声が、自分宛てのものだとは思わなかったらしい。顔を上げ、きょろきょろと辺りを見て、返事をする者がいないと分かると、私? と言った。
 横まで近付いて、荷物持ちます、と伝える。老女は織川の方へ少しばかり顔を向け、嬉しそうな声を発した。
「あら、まあ、何て親切な。いいのかしら?」
「お節介だったら、すみません。これ、持って降りたらいいですか」
「助かるわぁ、ありがとうねぇ。ここまでは頑張って片手で持ってきたんだけど、持てなくなっちゃって。でも、杖がなきゃ歩けなくて……」
 織川は、ここで初めて、老女が盲目であるらしいことに気が付いた。目はほとんど閉じられており、少し手術跡のようなものもある。持っている杖も、よく観察すれば白杖だった。
 しかし、初対面の女性をじろじろ見るのは、どう考えても失礼だ。ハッとなって、織川は内心慌てて、それでも荷物はしっかり持って、タラップへ向かう。女性はその足音に続くように、こつこつと音を立てて着いてきた。
 港に降りる。辺りを見渡しても、遠くの建物の影に猫が見える程度で、人の通りはない。下船する者は、自分と老女の他にいなかったらしい。今しがた乗ってきたフェリーは、次の港へ向かうべく、すでに準備に入っていた。
 港の待合所へ二人で行き、ベンチを見付けた。老女から預かっていた荷物をそこに置き、彼女にも座るよう伝える。
 老女は織川に頭を下げ、荷物の横に腰を下ろした。
「ありがとうね、若い方。助かったわぁ。あなたは観光で来たの?」
「いえ、ちょっと、友人に呼び出されたんです」
 織川は、その友人の硬い声を思い出していた。
 ――頼みがある。おかしなことを言っている自覚はある。でも、何も聞かないで、何も言わないで、会ったときに全部話すから、今から俺の家まで来てほしい。
 突然かかってきた、高校時代の友人、八柳晶やなぎあきらからの電話。それが、織川が矢倉島に来た理由だった。八柳は高校卒業と共に引っ越してしまったので、最後に会ったのは卒業式のときである。たった二年弱とはいえ、久方ぶりに聞いた友人の声を懐かしむ暇もなく、告げられたのが、先の呼び出しだった。
 電話を受けたのは昨晩だった。織川の住んでいるところから矢倉島は、それなりに距離がある。いくら友人とはいえ、せめて訳は聞かせてほしいと言っても、八柳は話そうとしなかった。最終的には織川が折れて、事情も何も、よく分からないままに来ることになったのである。
 電話のあと直ぐに準備をして、なるべく急いでたどり着こうと公共機関を駆使したが、当然当日の船便は終わっていた。結果として、今は電話を受けた翌日の、午後二時過ぎになっている。
「(大学も休講が重なって空いてて、アルバイトもたまたま休み。何の予定もない休日だったから、別になんでもよかったけどな)」
 ……普通、そんな急な呼び出しに、理由なく応じるか? という疑問は、至極真っ当に出てくるところである。そこはそれ、織川は何というか、好奇心旺盛な若者だった。「何だか面白そうだ」と判断すれば、自分の手の届く限り、躊躇なく首を突っ込む。そんな性格が災いして、少し奇妙な事件に巻き込まれたことも、一度や二度ではない。勿論、彼自身は、今回の場合、久しぶりに聞いた友人の声が平時のものではなかったからという理由もある、と言うだろうが。
「まあ、そうなの。遠かったでしょう」
「ちょっとだけ。でも、あんまり船旅なんてしたことがなかったので、楽しいです」
 老女は、町に住んでいる親戚に会いに来たのだそうだ。
 一人で大丈夫か尋ねると、迎えが来る予定がある、と返答があった。それならば大丈夫かと考え、織川は老女に別れを告げる。
 老女は手を振ってくれたが、ふと思い出したように去る背を呼び止めた。
「ああ、そうだわ、親切なあなた……今は、ええと、きっとお昼過ぎくらいかしら? 早くお友達さんに会って、夕方には外をうろつかないようにね」
「え?」
 待合室に併設されている観光案内所へ行って、自転車を借りよう。そんなことを考えていたところに聞こえた、不思議な忠告。
 夜遅くに出歩かないように、ならばまだ分かる。大人なら、若者にそう言ってもおかしくない。けれど、夕方は、時間帯として早いのでは?
 織川は思わず、理由を聞いていた。
「どうしてですか? この島、夜行性の動物でも出るとか?」
「いいえ、そうじゃないの」
 老女の顔から、笑顔が消える。
 出会ってから今まで、老女はいつも微笑んでいた。人懐っこい笑顔で、思わず、助けたこちらも嬉しくなるような、柔らかい笑みがあったのだが、それがぷっつりと止んだ。閉じられていた瞳が、うっすらと開く。
「『おめかけさん』が来てしまうからよ」
 少しばかり開かれた瞼の間には、眼球がなかった。

〈……続く〉

 『小さな人のゆめ』/作・酢飯(童話) 

 夕餉の時間になりました。とある山の上で暮らす〈大きな人々〉の家族は、石造りのテーブルを囲んで地べたに腰を下ろします。長男のハリギリは、母親の手に抱え上げられ、四角く切り出された石の上に座りました。
 ハリギリにとっては大舞台のように見える食卓に、林檎と樽入りの葡萄酒がちんまりと並んでいます。
 家族の視線が、ハリギリに集まりました。今日は、ハリギリが食前の祈りを先導する担当なのでした。
「海の果てにおられる方に糧の感謝を」
 ハリギリの小さな声に続き、家族は両の掌を静かに合わせてしばし祈りを捧げます。
「我らに安寧の地と、実りを与え給う方々に、夕の祈りを捧げ――」
 ハリギリの小さな声に耳を傾ける彼らの頭や肩の上に、小鳥が集まってきました。ハリギリの頭に止まった小鳥がチョチョと急かすように鳴き、ハリギリは祈りの言葉の最後を駆け足で終わらせます。
 家族はそれにほほえんで、食卓に向かって一礼したのち、小鳥たちに遠慮しながら控えめに食卓へ手を伸ばしました。彼らが指先で潰した林檎の欠片を食卓に播くと、色とりどりの小鳥たちが、賑々しく羽音と鳴き声を立てて食卓の上を我が物顔で占拠します。〈大きな人々〉は小鳥たちの間を縫って赤い果実を指先でつまんで口に運び、シャクリと一口で噛み砕きました。
 一方のハリギリは、父に作ってもらった石のナイフで林檎を二つに割り、一手間かけてようやく口に収めます。林檎を三つと、母が柄杓で掬った葡萄酒をひと舐め。父と母と弟は、ハリギリのそれよりもう少したくさん。
 〈大きな人々〉というのは、彼らの身体の大きさに対して食べるものはほんの少しです。なぜなら、彼らは一日のほとんどを地べたに寝転がって過ごすからです。森で食べ物を探すときと、余計な木を間引く以外は、静かに地面に横たわって、小鳥やほかの動物たちの声に耳を澄ましているのでした。
 ただ、ハリギリにはほかの家族と違ってもうひとつ大事な仕事がありました。ハリギリは、他の家族が手にすると潰れてしまう山葡萄を、他の家族より小さな手で優しく摘むことができたのです。山が実りの時期を迎えると、ハリギリは腕いっぱいに山葡萄を捥ぎ、木をくり抜いて作った器に潰した実を入れて蓋を閉じ、時折混ぜてやりながら葡萄酒を作ります。家族は食卓に並ぶ葡萄酒を褒め、ハリギリにいつも感謝をしてくれるのでした。
 ハリギリは褒められるたびに、嬉しさと同時に淋しさも感じてしまいます。葡萄酒というのは素敵なものだけれど、父や母、それに弟と同じようにできないことがほんの少し悲しかったのです。ハリギリはどうやっても、彼らのように木の幹を抱えて根っこごと引き抜くことはできませんでしたし、林檎を一口で噛み砕くこともできません。
 家族は、ハリギリがいつまで経っても大きくならなくても、とくに悲しむことはしませんでした。ただ、ハリギリのために大きな石を割って削って椅子を作ったり、ナイフを作ったりして、ハリギリが困らないようにしてくれるのです。ハリギリは、いつでも少し申し訳ない気持ちを抱えていました。

 そんなハリギリが、暗い気持ちを忘れてしまう一時がありました。
 ハリギリたちは山の高い高いところに住んでいるので、普段は雲や霧に阻まれて下の世界は見えません。ですが、ほんのたまに、気持ちの良い風が少し強く吹いて、それらを払ってくれる時があります。そうすると、海が見えるのです。チカチカと光る藍色がどこまでもどこまでも広がっています。そして、よくよく目を凝らすと、ゆっくりと動く小さなものがあちこちにあります。夜空に浮かぶ星々がゆっくりと位置を変えていくのと同じように、じっと見ているとちっとも進んでいるように見えませんが、気がつけば東から西へとずいぶん位置を変えているのです。
 父が言うには、それは〈船〉というもので、〈小さな人々〉が荷物を載せて海を渡るための乗り物なのだそうです。ハリギリの祖父は、〈大きな人々〉にしては活動的な人で、若い頃は山を下りてあちこちを見物していたので、その話を寝物語に聞いていたハリギリの父も物知りなのでした。葡萄酒の作り方を地上から持ち帰ったのも、祖父です。
「〈小さな人々〉は、わしらに比べると力が弱い。その分、なんでも協力するし、道具をうまあく使うそうな。だから、あんなに広い海も渡れてしまいよるんよ」
 一体、船とはどんなものでしょう。水の上に浮くには、ずいぶん軽くなくてはなりません。ハリギリが知る限りで水面に浮かんでいられるのは、落ち葉くらいのものです。
 しかし、父が言うには、
「じいさんが言うとったのを思うと、〈小さな人々〉いうんは、ハリギリと同じくらいの大きさかもしれんね」
「ぼくと同じくらいの人たちが、山の下にはいっぱいいよるん? それで、みんなで船に乗って、船を動かして海を渡りよるん?」
「そうらしいなあ」
 父はのんびり笑って言いました。
 そのお話は、ハリギリの世界をぐわんと揺らすものでした。自分と同じ背丈の人々がいるということは、最初からぴったりハリギリに合う大きさの机と椅子が山の下にはあるのです。地上の果物は、ここにあるものよりずっと小さいそうですから、食事のときにひとりだけナイフを使ったりしなくてよいのかもしれません。しかも、彼らは自分たちの手で船なんてものを作り、山よりももっともっと広い海を渡っています。
 ハリギリは、雲が晴れれば決まって海を眺め、〈小さな人々〉に混じって暮らす自分を思い描くようになりました。
 ですが、想像するだけです。ハリギリたちの暮らす山は、かつて〈小さな人々〉と〈大きな人々〉の住む領域を区切るため作られたもので、〈小さな人々〉が決して登れないように険しく作ってあります。小さなハリギリが山を下りてしまえば、同じように決して家族の元に戻ることはできないでしょう。そうなったとき、家族が悲しむのは間違いありません。
 そもそも、勝手にハリギリが少し悲しい気持ちになっているだけで、ハリギリが小さく産まれてしまったことを否定するものなど、この山にはいないのです。父や母は、ハリギリでも過ごしやすいよう工夫をしてくれていますし、ハリギリよりすっかり大きくなった弟のナルギリも兄としてハリギリを慕ってくれています。
 それで、十分のはずでした。
 けれど、ハリギリは家族を離れ山を下りてしまったのです。

〈……続く〉

 『誰か、海を。』/作・雲丹(ノスタルジー) 

「海を描いてはくれないか」
 こいつは何を言い出すのだろう、と男は思った。
 ここは周囲を強国に囲まれる、内陸の国だ。しかもこの国には立派な資源はあるが、立派な国力はないと来た。それは周りの国にして見れば、狼の前に間抜けに躍り出た子鹿のようなもの。たとえいかに優れた外交官であっても、この状況をどうにかできるとは思えない程にこの国は脆弱だった。まあ結局の所、そんな優れた人物なぞ、そもそも存在すらしなかったのだが。
 その立派な資源を安値ギリギリで買い叩かれ、輸出することで何とか安寧を保っている、そんな国だ。
 この国の国民たちは、働き盛りの男は兵役へ赴く。当然、他国との小競り合いで死ぬこともある。その間、国から何か援助が出ることもない。故に女達は出稼ぎや内職で日々を過ごし、子供は物心付いた頃から母親達の手伝いを行う。当然学舎など行っている暇もなく、文字も書けぬ、読めぬ者達がまた、兵役や出稼ぎで今日を生きる。
 男もそうだ。男が少し他と異なるのは、多少絵を描く才能があったことか。兵役を終えた者は総じて職に困るが、男は画家になろうと思った。しかし絵を描こうにも筆がない。絵の具がない。だから男は、冬を越えるための薪を少し炭にして、それを削って絵を描いていた。描かれるキャンバスも紙などという高価なものはなく、かといって石や木に描くわけにはゆかず、これもダメになった男の服や、道で餓死した死体の服で綺麗なものを使ったりして、手作りの木枠へ張り、それに描いた。そうしてそれを国境近くの大通りで売った。当然この国の者は見向きもしない。貧しい者に、娯楽を買う余裕などあるはずもないからだ。
 しかし、この国以外の者であるならば話は別だ。特に国外からやって来る商人達は、物珍しいものを好んだ。そういう意味で言えば、男が炭だけで描いた濃淡のある絵は当然珍しかった。色彩豊かな絵が溢れる他国には、無い発想ではあった。なので、目を留めて買っていく物好きもいた。加工されていない枝のキャンバスを褒める者もいた。勿論、男はそのキャンバスがどのような素材で作られたものかは言わなかったが。
 そうして男は暮らしていた。このまま出来うる限り絵を描き、描けなくなった時が己の死期であると確信して。
 そんなとき、一人の青年がやって来て言った。「海を描いてくれないか」、と。

   §

 男は最初、相手にしなかった。からかわれているのだと思った。何せここは内陸の国で、男はそこで多少の才を活かして日銭を稼ぐ貧乏人でしかない。男は海を見たことがなかった。男は青年がそれをわかっていて言っているのだと思ったのだ。極めつけに、青年は関所がある大通りの、他国に繋がる方角からやって来た。
「海を描いてはくれないか」
「悪いが、俺は海を見たことがねえ。他を当たれ」
「そう言わず、描いてくれないか。私はお前に描いてほしいのだ。金は支払おう」
「金を払われても、俺は見てもねえものを描くことは出来ん」
「そう言わず、描いてはくれないか。私はお前の描いた海が見たいのだ」
「なんとまあ、熱烈な口説き文句だ」
 そう冗談を言いながら、男は全く笑ってはいなかった。青年も男が自分のことを全く信用していないことには気付いていた。しかし、譲れぬ理由があった。なので、青年は男に言った。
「見れば描けるのか」
 男は応えなかった。描ける、とも、描けない、とも言えなかった。男の意地のような、自負のような如何ともしがたい感情からだった。それは他人にとっては塵屑のようなものだったが、男にとっては重要なものだった。描ける、と胸を張って言い切れるような立派なものではなかったが。
「見れば描けるのか」
「……さてな」
「そうか。では行くとしよう」
 やっと諦めたか。男はそう思い、描きかけの手製のキャンバスへ向き直った。
 しかし、青年は立ち去らなかった。あろうことか、男が出している絵を次々と回収し始めたのだ。
「おい! 何をやっている!」
「何って、片付けている」
「誰がそんなことを頼んだ」
「見ても描けるかどうかわからぬのなら、見てから決めればよろしい」
 男は絶句した。青年は全く諦めていないことにようやく気付いたからだ。
「待て、俺は移民の手形なんぞ持ってないぞ」
 この国の腐った政府でも、実は出入国だけは厳しい。出国するにはそれ相応の理由と、多額の金が必要だ。移民の手形がその最たるもので、巷では関所にいる役人に多額の金を渡さぬと不法な出国として投獄されるとまで聞く。
「心配ない。お前を雇うのであれば移民手形ではなく職業手形だ。すぐに手に入るだろう」
「海までどうやって行く! この国から海のある場所までどのくらいかかるのか知らんが、遠いと聞く! 俺にはそこまで行く金なんぞないぞ!」
「お前は何を言っている」
 捲し立てた男に、青年は心底呆れた顔で言った。
「旅費も私が払うに決まっている」

〈……続く〉

 『滅せよ! 信徒ちゃんwith呪われ系民俗学者』/作・鮭卵(不条理ギャグ) 

 海の底には都ありて、昆布の民の暮らしが繰り広げられているのだ。しかし見よ、哀れ今や昆布の国の中心、海中神殿にそびえたる塔の一角の先端に括り付けられたるは、今日まで崇め奉られた昆布の神の姿。
 この神、実際はかつて陸地で毎日「働きたくない」とつぶやいていたら、異世界転生というものを果たし、海中で呼吸できる能力に目覚めてしまっただけの人間である。呑気に毎日ウニを食べていたら、昆布の天敵だったらしく、気づけば神として祭り上げられていた、そんななんの変哲も無い神だ。しかしどっこい大誤算! ワカメ由来のなんか髪にいい成分入りのシャンプーを使ったところ、昆布の国の民に裏切者扱いされて困ってしまったかわいそうな神でもある。
 ゆらゆらと昆布の民は緑の顔をより濃き緑色に染め、炎が燃え上がるがごとき揺らめきで、手に手に取った鉾を投げつけようと振りかぶり、まさに裏切者の神を殺さんとしていた。
「あ、ああー! 俺はただ働きたくなかったんだ、ただ毎日好物のウニを食べてごろごろアンダーザシー生活を楽しみたいだけなんだよ! 神様お助けを!」
 しかし無情なことに海中にはこの昆布の神以外、神などいない! そのはずが、その言葉に反応するかのように、やにわに海中に泡が立ち、ブクブクと泡の渦が大きくできあがったかと思えば、
「ハゲはここかぁ!」
 誰一人として聞き覚えの無い、女の高く力強い声が海中に響き渡る!
 その脈絡のない猛り声に、揺らめいていた昆布も真水を打ったように静まり返る。
「ナマハゲはいねぇがー、ナマハゲはいねえが!」
 思わず頭を垂れて聞かずにはいられないその声の主。白いあぶくが水面へプカプカ消えていくと、この海の色さえくすんで見えるような鮮烈な青の目、金の髪の白く輝く肌を持った女の姿がそこにあったのである。
 昆布の神は目を見張ると、生来の楽観的性格を発揮してその女の到来を喜び、ホッとため息をつく。
「なんか知らんが助かりそうだ! 救世主っぽい人来たじゃねーかザマーミロ昆布どもが、おまえら海藻くさいんだよバーカバーカ! ああっ女神様、さぞや力のある方に違いない、そう、泡から生まれてくるなんて、もしかしてあなたはアプロディー!?
「悪霊退散!」
 テキトーに聞き覚えのある神の名を口にしかけたその瞬間、男の頭に高速の手刀が繰り出され、男の頭のテッペンを剃髪する。男は悲鳴を上げた。
「ワカメの成分でツヤツヤのモテ髪になるはずだった俺の髪が!?
「貴様がナマハゲかぁ!」
「なんの話!?
 海の塩が目に染みるわけでもないのに男は涙ぐむ。すわ処刑されるというところに救いの手が現れたかと期待すれば、髪の毛を掬い取っていかれたのだから。そして無情にもその掬いの手はもう一度繰り出されようとしていた。男の頭の側面に残った毛までも掬ってやろうとしているのである。
 もうおしまいだ、と男が震えた時、
「待て、信徒よ。その者はナマハゲではない、この世界の神だ」
 声と共にまた泡のぶくぶくがあり、目を見張れば、肌の焼けた黒髪の女が昆布の一人を丸めて投げつけてきた。
 バサリと海中で昆布の民が広がり、揺らめく。そして悲鳴の形に口が動くのが、男にはスローモーションで見えていた。それを投げつけられた金の髪の女の白い腕が当たるやいなや、神隠しに合うように消え失せたが。
 周辺に少しばかり旨味のある海水ができあがった気がする、と青ざめる男の顔を覗き込むのは二人の女。
「これが……? ナマハゲにしか見えませんが……我が神に誓えますか? 学者よ」
「誓う、誓うとも。この者からは確かに神のにおいを感じる」
 呆気に取られていた昆布の神だったが、かすかな海流にたなびく金の髪を見て、女どもが二人して、自らの括り付けられたる高き塔の先端まで浮かんで同じ目線でいることに我を取り戻す。
「た、助けてくれ。あとほんの少し生きながらえるだけでいいんだ。あと五分、あの鉾で串刺しにされさえしなければ俺の勝ちなんだ。あんた達も異世界転生者なんだろう? ここは昆布の世界だからな、昆布は地から離れれば海流に流されて死んでしまうやつらばかりなんだ、だからただ海中で息ができてウニが食べれて普通に泳げるだけで神様扱いもしてくれる。……あんた達にも仕方ないから毎日ウニをわけてやるし、俺の縄をほどいてくれ!」
「ふむ」
 黒髪の女は、赤みがかった瞳をきらめかせ、興味深そうにうなった。
「なるほど貴殿も異世界から来て神になった口か。そういうパターンは貴殿で五例目だな」
「パ、ターン? いや、なんでもいい、同じ転生者のよしみだろう、助けてくれるのかくれないのか!」
 金髪の女よりは話が通じそうだ、と男は懸命に黒髪の女に顔を向けてすがるような目をする。しかし波間にあっても聞こえるほどの風切音がして、男の喉元には――魚でもつついて食べそうな、銀のフォークがつきつけられていた。フォークの持ち主の白い手の向こうに、無垢なほほえみが浮かんでいる。
「ワタシは名も無きひとりの信徒。我が神、カルボル様より使命を賜り、聖なる乙女として信仰の無い者に信仰を届ける旅をしているのです。あなたのいうような転生者ではありません。全てカルボル様のおぼしめしにより、先だって悔い改めたこの学者を引き連れ、巡礼の旅を続けているのです。カルボル様の慈悲の前には海も山も天も地も光も闇も無く――ですから次元すらありません。すなわち、」
 男は目をしばたかせた。海水の青の中で鈍く光る食器でしかなかったフォークが、女の手の中で大きく、尖っている部分の鋭さを増しているように見えたからだった。
 女の瞳がますます優し気にこちらをとらえている。
「あなたの心にも壁なんかないはず――この世界の神と言いましたね。でも神はカルボル様以外にいるはずがありません。偽りの神を今すぐにやめるというならば、私はあなたにカルボル様からの祝福を渡しましょう。やめないならば、邪神は滅するしかありません」

〈……続く〉

hyoushi

2020/1/19「第4回文学フリマ京都」にて頒布予定
ブース:さ-28 ギルド海鮮丼
『SEA FOOD BOWL vol.1 海のどんぶり』
文庫本/136p/¥600