赤身「The Sail of Shane-Hafen ―シェーンハーフェンの帆―」お試し読み案内


赤身の個人製作誌:文庫本(78p/¥500)「The Sail of Shane-Hafen ―シェーンハーフェンの帆―」のお試し読みです。

プロローグ
 白亜の港町シェーンハーフェンは、大小様々な船が行き交う、交易の町として知られている。彼方此方に植物の置かれた、文様の描かれる石畳の道。様々な国籍の人々が訪れ、市場では持ち込まれた品々を売る、諸国の商人の声が響く。潮風が海鳥の声を運び、照り返す太陽が眩しい、美しい町である。
 その町の、大通りから一つ入った路地。人もまばらなその場所を、一人の青年が歩いていた。
 青年は、市場まで続く道を、軽い足取りで降りていく。ところどころに階段があり、両脇には住居が並んでいる裏通り。メインストリートに比べ見所もないので、住民しか行き交わず、利用者は多くない。
 とはいっても、いつもは誰かしら知り合いに擦れ違う。それなのに、今日は何故か、人気が少ない。それでも、窓や壁の向こう側に、話し声や人の気配はある。なので、道に彼しかいないのは、本当にただの偶然らしい——が、動くものは、彼のほかにもあった。
 勝手に宙に浮き、洗濯物を干す紐。
 窓辺の植物に、尽きぬ水を遣るじょうろ。
 玄関先の掃き掃除を、くまなく行う箒。
 人が居ないにも関わらず、意思を持つかのように動くもの。これ等は総称して、人々より〝魔法導具〟と呼ばれた。古き時代を生きた民が作り出した、大小様々な創造物のことであり、持ち主の内包する生命力を糧に稼働する。人の営みをより豊かにするために生み出されたが、余りにも耐久性に優れていて、滅多なことで破損しなかったため——今現在では、修復する方法すらも失われた技術であった。
 うまく使えば便利なものだが、生憎、アップルトン家とは無縁である。何故なら、家長である長女アイラの、「手でやれることは魔法に頼らない」方針があるからだ。
 流石に火を点けたり湯を沸かしたりといった、魔法導具の方が圧倒的に早い作業に関しては導入されているが……例えば自動筆記用具オートライターなどは、笑顔で購入不可を言い渡された。
 羨ましくはあるが、無い物ねだりをしても仕方ない。財布の紐は家長が握っているので、自分や妹に拒否権はないのである。
 どれもを横目にしつつ、青年・ブライス=アップルトンは歩を進めた。
 角を曲がれば、視界が開けた。
 風の香りに海の匂いが強くなり、人々のざわめきが耳に届く。楽器か録音か分からないが、軽やかな音楽も混ざっている。町一番の広場は、今日もまた、明るい喧騒に満ちていた。
 食べ物を扱う屋台から、ハーブの効いた肉の香りが漂ってくる。ブライスは朝食を食べておらず、今は太陽が頂上に掛かる手前だったので、足が自然とそちらに向いた。
「おはよ、マルシアさん」
 ブライスが挨拶をしつつ近付くと、顔なじみの店主は快活な笑顔を返した。
「あらブライス、今日も来たわね! 何か食べてく?」
「うん、頼むわ。スッゴいお腹空いてるから、ちょっとサービスしてくれたら嬉しいなあ」
 硬貨を数枚渡し、皿に料理が盛り付けられていくのを眺める。焼き目のついたパン、町周辺で取れた瑞々しい野菜、火に炙られたソーセージ。横にスープを添えてくれているのは、ブライスのリクエストを聞いたマルシアの心意気だろう。
 この人物との付き合いは、ブライス含むアップルトン家が、シェーンハーフェンに移住してきたときまで遡る。知らぬ土地へ来たばかりで、右も左も分からずにいた三きょうだいを、同郷だからと言って、気にかけてくれたのがマルシアだった。
「何よ、また朝ごはん抜いたの? だから背が伸びないのよアンタ」
 日に焼けた腕が、カウンターの向こう側から伸びてくる。その手が掴んでいるトレーを受け取り、屋台の横にあった椅子に座った。
「ここの奴等がデカいんだよ。おれはちっさくねぇからいいの」
 シェーンハーフェンは、港町だけあって海の男が多い。屈強な体格に恵まれた船乗りたちに並べば、平均程の身長のブライスは、どうやったって小柄に見える。
 それだけだ。そう、決して小さい訳ではない。決して。外はカリカリ、中はふかふかのパンを囓りながら、ブライスは誰に言い訳をするでもなくそう思った。
 朝昼兼用になってしまった食事を食べ終わる頃、にわかに広場の一角が騒がしくなった。ブライスがそちらを見やれば、人だかりができている。人々は、何かを熱心に見ているらしい。輪の中心で、誰かが話をしているようだった。
「あっち、なんか騒がしいわね?」
「何だろうな……ちょっと見物に行こっと」
「あらズルい! 面白い話だったら戻ってきて教えなさいよね」
 マルシアに食器を返し、ブライスは寄り道をすることにした。どうせ用事は、姉から頼まれた、いつものお使いしかなく、つまり急ぎではない。だから、ちょっとばかり群衆の仲間入りをしても、大目玉を食らうことはないだろう。そう考えてのことである。
 人々から注目を浴びているのは、ブライスの記憶にない顔だった。ほとんど毎日のように広場を訪れる彼にとって、ここは言わば、勝手知ったる庭のような場所である。異国なまりのある発音からして、町の外から来た行商人だろうと思われた。