鮭卵「性癖ですので、お仕えさせていただきます。」お試し読み案内


鮭卵の個人製作誌:注釈付き新書本(172p/¥1,000)「性癖ですので、お仕えさせていただきます。」のお試し読みです。

一 坊ちゃんとメイド長
 偉大だった父親の一周忌を迎える間もなく、母親も後を追うように亡くなってしまった。広大な館は光を失い、後継者争いをする親族の数多の嘲笑とは対照に――少年はひとりぼっちになる。
 まだ十二歳、父親とそっくりな金髪赤目の彼は、喪服を着替えるのを手伝おうとするメイドの手を冷たく払いのけると、イライラと「行け」と短く言った。メイドは恐れと同情の入り混じった顔で、言葉もなく一礼のみで部屋を去る。
「さて、これで屋敷の使用人は皆、姉さまだか叔父さまだかの元へ行ったと見える。お前も早く行ってしまえ」
 自ら脱いだ黒のジャケットを丁寧にクローゼットにかけると、少年は何の感情も明かすまいと細目に、部屋の隅にたたずんでいる最後の使用人――メイド長を見た。
 俯いており、その表情は見えない。
 全盛を誇った時ならばいざ知らず、屋敷は荒れ果て放題、喪中の証につけるつもりであった自分の黒の絹のチーフさえ見当たらない始末。宝飾品の入った小箱などは、母が病に倒れた頃にはとうに消え失せていた。それでもまだ母の生きている内は最後の遠慮もあっただろう、しかし今や、数々の父の遺産、母の形見は持ち去られて跡形もない。せめて強がりぐらいは言わなければ、少年は自分が絶望で動けなくなるのがわかっていた。
 部屋の灯りがチカチカと瞬く。電球が切れかけているらしい。日々少しずつ、ほこりが一層嵩を増す場所が屋敷内に増えたことに気づけないほど、彼は幼くはなかった。
 父の葬式を終えた時から少しずつ、母親が埋葬されてからは数日で、使用人は皆、出て行ってしまったのだ。しかしそれも致し方の無いことと、少年は逃げていく使用人を、責めることができなかった。というのも、後ろ盾の立派な腹違いの姉や弟、父の実の弟など、父の莫大な財産も領地も、またその権力をも受け取れるだけの後継者候補は複数いるのである。
 全ての威光と庇護を失ったひとりの少年が、今後の未来のありとあらゆる局面で無力であるのは明白。この家を主とし続ければ、その使用人でさえ没落に巻き込まれることなど、考えるまでもない。
「……気難しい父さまの世話を任されていたお前のことだ、察しが悪いわけではないだろう、メイド長よ。私への同情からか、あるいはメイドのひとりでもいる内はお前が責任を持って監督しようという責務からか……。なんでもいいか。今すぐやめろ。誰も彼もと哀れまれるほどに、私もこの家も落ちてなどいない」
「もう、よろしいのですね」
 少年の冷え切った声に、か細く震える声が、ぽつりと部屋に響いた。
 見捨てられる辛さに心が傷むのもこれが最後だ、と少年は目線を足元に落とし、彼女が立ち去るのを待つ。
 くぐもった靴音。床に敷いた絨毯の、毛羽立ってきた織り目がふわふわと揺れるのを、少年はぼんやりと見つめていた。
 ――ただ、その足音は扉に向かわず、予想に反してまっすぐに自分の方へ向かってくる。
「な――」
「もう、我慢しなくてもよろしいのですね!」
 何事かと警戒して顔を上げれば、満面の笑みを浮かべたメイド長が、もじもじと自分の間近まで寄ってきていた。
「あの、わたくしめ、その、」
「なんだ、最後に何か要求でも?」
 少年はその近さにたじろぎつつも睨む。ところがメイド長は、一層うっとりと自分の手を取り、ひざまずいた。
「最後? 最後なんてとんでもない」
 その笑顔が、他人が久しぶりに自分に向けたものでほっとした、などと感じたことを、すぐに後悔する。
「坊ちゃんはわたくしめの性癖ですので、お仕えさせていただきます」

二 カミングアウト
「せいへき」
「はい、わたくしめ、父君や坊ちゃんのような、金髪赤目の高貴な方にお仕えするのが性癖なのです」
 ジジジ、と灯りの芯が焦げて瞬く音が、やけに大きく聞こえる。
 言われたことの意味が分からず、頭の中にメイド長の言葉が繰り返しこだました。そしてやっとその言葉の字面を理解して、ひざまずいたまま、目をキラキラと輝かせて自分の手を恭しく持ち上げるように取るメイド長に。
 少年はぞっとした。
 この女、二十いくつにして年配のメイドにも若いメイドにも慕われ、仕事も卒なくこなし、父さまの顔色を窺うことすらなく身の回りの世話をすると、そう評価されてメイド長になった、ただ優秀なだけの人間だと思っていたのに。せいへき。その性癖を満たすためだけに仕えていたと、いうのか?
 少年は、親を失ったあげくに変質者の慰み者にされるかと思うと、さすがに心が耐え切れず、眉をハの字にして涙ぐむ。
「おっとそれはいけませんね」
 メイド長の顔が一瞬で真顔になった。非常に深刻な目つきになる。
「解釈違いですね」
「……は?」
「坊ちゃん、わたくしめは金髪赤目の高貴な方が高慢にふるまっていらっしゃるのを見るのが好き……、そしてそのような方をお支えすることこそ、わたくしめの生きがい!」
「うん……」
「ですので、坊ちゃんにはぜひ! もっと! わたくしめに強気に偉そうに振る舞っていただきたいのです! ぬるい紅茶をいれれば不機嫌になり、庭園の薔薇が白ければ赤い薔薇が良かったと首をはねようとする! それぐらい不遜で傍若無人な感じでお願いします!」
 怒涛の勢いで話されるも、頭に入ってこない。少年は自分の手を取り続けていたメイド長の手をバッと払いのけると、よろめきながら後退った。
 そして青ざめる。
「決めた。お前のような者が残るというならば、いっそ自害する」
「解釈違いですね。手を払いのける感じは素晴らしかったですが、ご自身が不愉快ならばそこはわたくしめに自害を命じるところです。あと、顔! ご尊顔は常にこちらをさげすむような表情をキープ! 特に目に力を入れてください、眉は冷徹にぴくりとも動かさず!」
腹の底から響くような声で早口に喋るメイド長に、少年は悲鳴を上げる。
「な、なんなんだ! お前はただ立ち去ってくれればいいんだ! 見ればわかるだろう、私がお前に給金でもやれると思うのか? どうせ私はどこかの養子にでも――」
「はあ、つまり……、坊ちゃんは後継者となる自信が無くていらっしゃる?」
「当たり前だろう! 私はまだ大人じゃない、お前が何を言ってるのかわからんが、お前が求めるようなことは私にはひとつもできない!」
 叫ぶと同時に、父が亡くなってから考えないようにしてきたことや、母を亡くしてから感じていた恐れと不安が少年の胸にこみ上げる。
 今までの人生、たった十二年間の人生で自分が褒められたことがあるとすれば、人々から畏れられていたことがあるとすれば、ただ外見が父親に似ているということ、それだけだった。他の親族が勉強や習い事、立ち居振る舞い、交流事で褒められる中、自分だけはいつも、見た目が偉大な父親に似ている、ということだけを言われる凡人だった。
「間違えるな。残念だが、私は父さまでは無い。……今日までのお前の働きに免じて、今話したような世迷い事は忘れてやろう。ここに残ると言ったこともだ。早く姉さまあたりの家にでも行け」
 少年は声を震わせないように、精一杯に背筋を伸ばした。できる限り表情を無くすようにする。十二年生きてきて身に着けた処世術といえば、そうやって堂々とした父の真似をして、相手に委縮してもらうことぐらいしかない。
 メイド長は目を見張った。そしてよろよろと立ち上がると、今まで呼吸を忘れていたかのように息を吸い込み、深いため息をついた。
「なるほど……、なるほど」
 何を言うのかわからないが、これ以上自分を取り乱させないでほしい、と少年は願った。
「やはり……、素晴らしい! 坊ちゃん以上に父君と同じくなれるような方など、おりはしません!」
 しかし無駄だった。